まず最初に、この記事はホントーに自論記事です。ちょっとムッとすることもあるかもですが、僕がずっと考えてることでもあります。実体験でもあるので、見ていってもらえると嬉しいです。
「さよならやありがとうを言いたかった」
こう思ったのは、父が自死したことと祖母が認知症になり僕たち家族のことをキレイに忘れて逝ってしまったことがきっかけ。悲しいですよね。タイトルにもある通り、これらの死に方より、余命宣告を受ける死に方を僕自身はしたいなって思っている
なぜ余命宣告の最期がいいのか
父の自死
僕の父は、僕が父の会社に入社し、しばらく経ってから自死しました。その時は呆然としました。何が辛かったのか。辛さから救うことは出来なかったのか。僕がいけなかったのか。もう少し一緒にいてほしかった。色んな感情が湧き出て涙が止まりませんでした。
ひとつ言えることは、「ありがとう」と言いたかった。
認知症の祖母の最期
父の母親である祖母は父の自死後、認知症を発症しました。その強いストレスが原因のひとつになったのだと思います。
時間としてはゆっくりだけど確実に見の周りの物事がわからなくなり、数年で僕や家族の存在がわからなくなりました。
徐々に生活に支障をきたす認知機能の低下、介護に追われる日々。そんな毎日に祖母の本来の人格は忘れてしまい、感謝や尊敬の念も忘れてしまうような毎日でした。
ここは個人差もあるだろうけど、凶暴になったり徘徊したりと、実際経験した者でないとわからない辛さがありました。
介護が手に負えなくなり、介護施設に祖母を移したあと、やっと冷静になることができました。しかし、それと同時に祖母への感謝の気持ちが出て来たときには、僕たち家族は祖母には分からなくなっていました 。
祖母にはありがとうが届いてなかったのかもしれません。
故人の思いを無視するようだけど
残されたものの勝手な思いかもしれないけど、無くなってから伝えたいことが山程出てきた。日頃から伝えておけばいいという正論も分かるけど、家族ってそんなにいつも素直じゃないし。
余命宣告は大事だと思う。
余命宣告のない死が与えた影響
最期へ向かって本人も家族も「覚悟」決めていく。そんな時間はあったほうがいい。できる限り悔いのないように、いままで出来なかったことを取り戻す時間として使えるから。
突然の別れになると、喪失感に始まって後悔や自責の念でいっぱいになる事がある。言葉では伝わらない影響が多くあった。
僕から見る父と祖母は、身内のひいき目を差し置いてもなかなか出来た人間だった。そんな人間の遺伝子をもらってるという誇りと、「そんな父と祖母は生きていたらどんな事を思うだろう」と彼らが天国で喜ぶような行動を取ろうと必死になってきた。
そんな思いが僕を最終的に苦しめた。自分の思いより実態のない故人の思いを尊重したために、自分を無くしてしまった。特殊なアダルトチルドレンになったんだと思う。結果うつ病に苦しんだ。
僕の目標は余命宣告を受けて最期に向かうこと
そうじゃない人もきっといるだろうけど、今の僕はこれを最終目標にして生きている。せめて、残していく人に「さよなら、ありがとう」と伝えられればいいなと思う。
自分語りにお付き合いいただきありがとうございました。
ではでは