以前の記事で、禅寺で生活したときのことを書きました。そこで体感したミニマリスト感みたいなもののお話です。
僕はモノを捨てられない人間でした。
他の人から見ればどうでもいいモノも「いつかは使うから」としまい込み、とっておいたものの中で暮らす生活をしていました。
でも、今は極力モノを増やしたくないと思っています。
では僕の中でどうしてこのような変化が起こったかをちょこっと掘り下げてみます。
ちなみに、ミニマリストには憧れますが、なれてはいません。普通の人よりちょっとモノが少ないかなって程度です。
規則正しい約4ヶ月の禅寺生活
僕がお世話になったお寺は京都亀岡の宝泉寺という禅寺で、禅センターとして禅修行体験の方が多く訪れるところでした。そこで4ヶ月弱の間常住といわれる修行者兼スタッフの役目を勤めてきました。
禅寺の生活はとても規則正しいものでした。
一般の修行者が滞りなく修行に専念できるように朝5時から夜10時まで、分単位、秒単位を意識した行動を求められます。イメージは宿泊業の仕事に近いものがあるかもしれません。うつの症状もあったため、はじめのうちは不慣れな生活スケジュールと覚えることの多さで、とてもツラかった覚えがあります。
大変なこともありましたが、なんとか修行期間(自己申請による期間、3ヶ月以上)を達成でき、今ではいい経験が出来たと思っています。
「モノはあまり必要ないのかも」と気づいた感覚
そんな、きびしく感じた禅修行ですが、2ヶ月ほどすると慣れるものなんです。
そして、余計なものを持ち込んではいけない規則や整った設備もあってか、徐々にモノの少ない生活にも慣れていきました。
それまでモノの少ない生活は経験がなかったし、ミニマリストという人たちの存在も知らなかったのですが、いざ経験してみるとストレスは少なかった気がします。なんか気持ちいいという言葉にしにくいような感覚がありました。
モノがないぶん、何かを感じ取るセンサーが強くなっているのか、温かい日差し、爽やかな風、優しい鳥の声、境内にいる猫の癒しなど、全てが新鮮に感じとれました。これは季節が過ごしやすかった春だったからというのもあるかもしれませんが、自分にとって新しい感覚でした。
このとき初めて、ミニマリズムというものに触れたんだと思います。
俗世に戻って痛感する現実
そんなこんなで修行も終え、自宅に帰ってきたわけです。
しかし、自宅に戻り真っ先に気になったのは部屋にあるモノの多さでした。その数々のモノは、全部自分で買って増やしたものだったし、自分で捨てるのを惜しんだものだったのですが、必要ではないモノがすごく多く、ある意味ショックだったのを覚えています。
戻りたいシンプルライフ
あの自然が近くなったような感覚ってお寺だから感じたものだったのか?と思ったときに気づいたのが、心のなかに響く「モノによる雑音」のせいという結論を自分の中に出しました。
それからミニマリズムについての本を読んだり、ネットで少しずつ勉強するようになりました。
少しづつ自分のモノを少なくする日常
今ではだいぶモノが少なくなったほうだと思います。そして、また増えないように気をつけながら生活しています。モノの整理の奮闘記については、改めてまとめていこうかと思います。でもまだ、自分のモノを整理しただけで家にはすっきり感が出ていないのが現状です。
家族への期待を捨てること
突然ミニマリズムに目覚めた僕ですが、家族にもシンプルな生活を一度でもいいので体験してほしいなとも思います。無理強いは嫌なので、長い目で焦らず見ています。過度の期待を捨て、自分の周りのモノを厳選生活といった感じです。
そしてこの間、そんな生活をしていたらなんと!両親が揃ってモノの整理を始めました!
過度な期待は捨てていますが、のんびりしながらワクワクしています。
今日はこのへんで。では。